「守るために壊す」木彫師・前田暁彦の覚悟|DIVINER【特別対談】
DIVINER Presents 前田暁彦×DIVINER ─ 妥協のない男達の生き様 ─
DIVINERのコンセプト「RECKLESS LIFE=妥協のない生き様」を軸に、己を貫き通す男達に密着。
今回は、だんじり彫刻の枠を超え、世界へ挑む
木彫師・前田暁彦。
400年の伝統を背負いながら「あと5年が勝負」と語る真意とは?
ノミ一本で未来を切り拓く職人の生き様に迫る。
原点と覚悟
―木彫りとの出会いを教えてください
前田氏出会いは生まれた時からです。
僕は大阪の堺出身なんですけど、物心ついた3歳の頃から地元のだんじりの追っかけをしてました。
南大阪のだんじりをやっているエリアの子たちは、一度は「だんじりを作りたい」という夢を持つものなんですが、僕もその一人でした。
ただ、本当になれるのは「一握りの中の一握り」という厳しい世界ですけどね。
―その中で木彫師になりたいと思った瞬間、
きっかけは何があったんですか?
前田氏きっかけは小学3年生の時、祭りの日の朝、修理から帰ってきたうちの町のだんじりを見た時ですね。
子供心にだんじりって、神社やお寺みたいに古くなったもので、「作る人はいないから大事に使わなあかんもんや」って思っていたんです。
それが、ピカピカに修理されて、めちゃくちゃカッコいい彫り物に変わって帰ってきたんですよ。
「今、これを作ってる人間がおるんや!」って衝撃を受けました。今でもめっちゃ覚えてます。
学校の帰り道、ランドセル背負ったまま1時間も2時間も座り込んで見惚れてしまって(笑)。
あの時の感動が、すべての原点ですね。
―そこから一直線に職人の道へ?
前田氏いや、実は大学まで行って、就職活動もして内定ももらってたんです。僕らの世代では珍しいんですけど。
うちは先祖代々公務員一家で、だんじりなんて全く興味ない家系やったんで、猛反対されまして(笑)。
でも、内定先の研修が始まった時に「あ、俺サラリーマン無理や」と思って。
一度きりの人生、好きなことをせずに後悔して死ぬのは嫌やなと。
それで親や親戚の反対を押し切って、この世界に飛び込みました。
アーティストになるな、職人であれ
―職人として仕事をする上で大切にされている
「こだわり」はありますか?
前田氏こだわりねえ…。
一番は「お客さんが答え」だということです。
ここが今も悩むところなんやけど、僕らは「アーティスト」じゃなくて「職人」なんですよ。
アートは「俺の世界観はこうだ、気に入ったら買えよ」というスタンスでもいい。
でも僕らは依頼されて作る仕事やから。
「なんぼええもん作りました」言うても、お客さんが「思ってたのと違う」と言ったら、それは失敗なんです。
だから僕のこだわりは「お客さんを喜ばすこと」。
予算や要望という制約の中で、いかに妥協せずにお客さんの期待を超えるか。
そこが職人の腕の見せ所ですね。
―なるほど。「自分が作りたいもの」ではなく
「相手が求めているもの」を形にするということですね。
前田氏そうです。
弟子時代、親方によく言われました。
「アーティストになるなよ、アーティストは儲からんぞ」って(笑)。
でもそれは真理で、独りよがりな作品を作っていては、仕事として続かない。
仕事として続かなければ、技術も残せないんです。
木彫師としての使命。
―自身にとって木彫師という職業はどんな意味を持っていますか?
前田氏
正直な話、生きていく上で「無くてもいいもん」やと思うんです(笑)。
無くても困らないものを職業にして飯食ってるんやから、何かしらの付加価値をつけていかなあかん仕事で。
めちゃめちゃ難しい仕事やと思いますよ。
それでもありがたいことに、独立してから仕事が途切れたことないんですよ。
「不思議な仕事やな」と自分でも思います。
―無くてもいいけれど無くならない。
そこに心境の変化はありましたか?
前田氏
40歳を過ぎてから、強烈な「使命感」を感じるようになりました。
だんじり彫刻には400年の歴史があります。
先輩たちが繋いできたバトンを、僕らの代で途切れさせるわけにはいかない。
我々、独立して看板を掲げている親方衆全員の責任やと思うんです。
―次世代へ繋ぐ、ということですね。
前田氏
そうです。
でも、「だんじり」という形だけに固執していたら、この先、職人は飯が食えなくなります。
だから僕は、「木彫師=だんじり屋」という枠を壊したい。
例えば今進めている「彫刻の技術」を活かして異業種とコラボして新しい価値を生み出していくことだったり。
これは木彫師に限らず、日本の伝統工芸士で今疲弊していってる人たち全員に言えるメッセージやと思うんやけど、「視野を広げろ」と伝えたいですね。
技術はすごいんやからさ。
日本の技術ってな、使い方間違えてんねん。
一個のことばっかりやってんねん、みんな。
もっと色んなこと掛け合わせていって、世界出ていけよって話やねん。
じゃあなんぼでも仕事生まれるぞ、と。
―それが次世代へのバトンになるわけですね。
前田氏
あと5年が勝負やと思ってます。
今、職人がどんどん減っている。
5年後には、木彫りで何かを作れる人間はほんまに一握りになります。
その時に、仕事はあるのに作り手がいないという状況にならないよう、今のうちに若い職人を育て、彼らが胸を張って飯を食える「新しい木彫師のあり方」を作っておくこと。
それが、今の僕にとっての「木彫師」としての責任であり、使命ですね。
聖地・岸和田を離れた「生存戦略」
―5年前に、だんじりの本場である岸和田から、
ここ大阪市内へ拠点を移されました。
なぜ「聖地」を離れたのでしょうか?
前田氏
一言で言うと、だんじりの仕事が激減しているからです。
だんじりって一度作ったら100年は保つんですよ。
で、平成の30年間で大阪にある約400台のだんじりが、ほぼ全て入れ替わってしまった。
つまり、ここから先の数十年、僕らが一台まるまる新調するような大きな仕事は、もう物理的に生まれないんです。
「仕事がない、どうすんねん」ってなった時に、岸和田にいたら埋もれてしまうと思ったんです。
岸和田にいると「だんじりしか作れない人」と思われてしまう。
でも、僕らが持っている彫刻の技術は、もっと他のことにも使えるはずやと。
それを知ってもらうためには、あえて地元を離れて都会で挑戦する必要があると考えました。
―実際、変化はありましたか?
前田氏
めちゃくちゃありましたね。
ここ(大阪市内)は人通りも多いし、感度の高い人や富裕層の方もいらっしゃる。
都会で接点を増やしたことで「何これ?すごいな!」って興味を持ってくれる人が増えました。
そこから「こんなん作れへん?」って、だんじり以外のオーダーまで来るようになったんです(笑)。
紹介が紹介を呼んで、仕事の幅が一気に広がりましたね。
進化する伝統。職人が“商社”になる時
―仕事の幅が広がったことで、
最近は「商社」としての機能も持たれているとか。
前田氏
そう。ものづくりをする「木彫前田工房」と、それを売る「商社」を分けてやっていこうと。
職人は作るのには長けていても、売るのが下手なんよ。
自分たちが作ったものを、自分たちで売る商社機能が必要やなと。
先日、海外視察に行って確信してんけど、世界中は今、本物の「メイドインジャパン」を渇望してる。
でも、海外にある多くの「日本風のお店」は、日本人が経営していなかったりして、デザインに違和感があることが多い。
「妙にこの店パンダ多いな」とか(笑)。
「本物の日本」が伝わっていないからこそ、そこに勝機がある。
僕らが「本物」を持っていけば、絶対勝てる。
だんじりに拘らず、日本の伝統技術の「販路」を海外に作ってあげる。
それができれば、日本の職人たちは「作る」ことに専念できる。
そうやって伝統工芸を残していくシステムを作りたいんです。
エピローグ
―最後に、ご自身にとって
「RECKLESS LIFE=妥協のない生き様」とは
前田氏
職人であり続けることやね。
アーティストにならへんことやったり、また業界の当たり前に固執して変なこだわりを持つと、フットワークが重くなって、時代の変化についていけなくなる。
僕が唯一妥協したくないのは、「日本の高い技術力を後世に残すこと」だけなんです。
だから僕は、世界中のお客さんが喜んでくれることを形にする職人であり続けたいと思っています。
【編集後記】
「あと5年が勝負」。対談中、前田氏は何度もそう口にした。
それは伝統工芸が直面する厳しい現実への危機感であり、同時に「自分が変える」という強い決意の表れだった。
守るために、壊す。
ノミ1本で木に命を吹き込む木彫師「前田暁彦」が、次はビジネスというノミで日本の伝統工芸の未来を彫り出そうとしている。
その姿は、かつてだんじりに魅了された少年のように、どこまでも純粋で、誰よりも熱かった。
Profile
─ 前田 暁彦 ─
株式会社木彫前田工房代表取締役
2008年に大阪府岸和田市にて木彫前田工房創業。
2021年1月には大阪市内に工房を移転・法人化を行うことで、これまでの個人経営が主流となっている伝統工芸において、持続的な技術継承、さらなる事業拡大・多分野への進出を目指している。
Company:株式会社木彫前田工房
Address:大阪市北区天神橋一丁目14-5 丸宮ビル303

